小さな村では、城壁が360度または大部分で残っているところがありますが、フィレンツェの町もかつては360度囲まれていたことをご存知ですか?アルノ川向こうでは一部城壁が残っていたり、車で走っていても門だけそのまま残っているので知ってはいましたが、それがいつどんな風に、そして何回建て替えられたかは、先日サン・フレディアーノ門について調べていくまで、はっきりと知りませんでした。
それでは・・・一番簡潔に分かりやすく紹介されていたサイト「Firenze In 44 domande 」から、かいつまんで翻訳しますね!まず城壁が何回建て替えられたか?ですが、私は前に何かで読んで、3回だと思っていたら・・・勘違い?だったようで、
なんと6回!
も建て替えられているのです。このリンクのページ半ばに、城壁の変遷のイラストが見られます。では、それぞれの城壁や町の様子について追っていきましょう。
ローマ時代(フィレンツェ建国時の紀元前59年頃~)
1辺が約1800m・20ヘクタールの面積で人口2000人。町の4辺には1つづつ門があり、西は現在のトルナブォーニ通り、北はチェッレターニ通り、東はプロコンソロ通り、南はヴァッケレッチャ通り・テルメ通り、。中心はレプッブリカ広場で、カルド(今のローマ通り・カリマーラ通り)とデクマヌス(今のストロッツィ通りとコルソ通り)が交わっていました。2世紀には人口が10000人を超え、新たな城壁が作られたそうです。
ビザンチン時代(541~545年)
西ローマ帝国崩壊後は蛮族やギリシャ・ゴート族の戦争で荒らされ、フィレンツェの人口は1000人にまで落ち込み、新たな城壁が建設されます。大きさは建国時のものよりも西・北・東の3辺を縮めた小さなものでした。
カロリング王朝時代(9世紀初頭)
774年にカール大帝によりロンゴバルド族の支配が終わり、カロリング王朝により建設された城壁。建国時の城壁とほぼ大きさであるが、南にずれた形で現在のシニョーリア広場まで含んでいます。
マティルディーナの城壁(1078年)
人口は20000人を超え、トスカーナ伯爵領の中心がルッカからフィレンツェに移り、マティルデ・ディ・カノッサ伯爵の命で作られたのでこう呼ばれている。カロリング王朝時代とほぼ同じだが、一回り大きくなり、南側は初めてアルノ川(今のウフィツィ美術館)まで到達しました。
市外壁1(1173~1175年)
今までの城壁を45度傾けて、大きさは4倍に。西は現在のフォッシ通り・ジリオ通り、北はプッチ通り・サンエディージオ通り、東はヴェルディ通り・ベンチ通り、南はついにアルノ川の向こう側まで到達、現在のグラツィエ橋・サンフェリーチェ広場・カッライア橋の参画のゾーンを含んでいます。完全な防御用の壁ではなかったにせよ、上にはとがりくいの柵が張り巡らされていたそうです。
市外壁2(1284~1333年)
1284年に建設が開始し、完了したのは1333年。アルノ川向こう側の全地区を含み、現在の歴史的地区・大通りがある場所とほぼ合致し、内部は430ヘクタール。プラート門からサン・ガッロ門、クローチェ門からローマ門まで8キロの城壁は、イタリア統一までの5世紀にわたり存在していました。
こちらは1470年頃に描かれた「鎖の地図」で、最後の城壁の様子を証明する貴重な資料となっています。しかしこの城壁は、1861年イタリア統一後、1865年にフィレンツェがイタリア王国の首都になった時(1871年まで)に撤去され、現在の環状大通りが通されました。私的にはとっても残念ですが、フィレンツェが近代都市、しかも首都としての役割を果たすためには仕方なかったのかもしれませんね。しかしTOP写真のように、アルノ川向こう側の地区の城壁と塔そして門だけは保存されました。また1998年にはローマ門~タッソ広場までの城壁が修復されたそうです。
今度フィレンツェに来られる際は、城壁にもちょっと気を止めて見てみてください。城壁の場所まで行かなくても、ドゥオモのクーポラに上った時、またはミケランジェロ広場など、上からのパノラマだとよりフィレンツェの町の様子が分かりやすいと思いますよ。
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